権利者とユーザーとの間を歪めている原因は著作権法

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://soulwarden.exblog.jp/6102975/


文字数制限のために はてブに書けなかった話。


俺が根本的に採りうる立場は〈社会が要望するものに対してシステムが全く対処できていない〉と現行著作権制度を評価するものだ。
実のところ、著作権に触れるような(あるいは私的複製のように権利者から目の敵にされているような)行動の殆どは、正規流通でカバーされていないものばかりだ。
「違法」着うたの件にしても、自分でもっとカスタマイズできるような着うた配信サービスが存在していれば、殆どの場合 正規サービスを利用するだろう(もちろん仕様や価格という面は大きいが)。
俺が「違法」ダウンロード禁止という暴挙を批判するのも、この行為が示唆する需要を正規流通が満足させていないという現状認識を持っているからだ。
すなわち、「違法」ダウンロードが文字通り違法化されてしまったとしても、その正規流通で満足させられていないダウンロード行為については決して無くすことができない!


この種の話で非常に違和感があるのは、現行著作権法が価値判断の起点になりすぎているということだ。
勿論ルールをルールと捉えることは必要であるが、そもそも時代遅れだ何だと言われている著作権法現代社会を評価するのが適切なのだろうか?
現行著作権法(およびその周辺、法学など)は私的利用目的の複製について、いまだに社会に複製機器が普及している世界を想定できないでいる。
私的複製についてはまぐれ当たりで30条という画期的な規定が生まれているのだが、送信可能化権に至っては全くそうした緩衝もなく露骨に〈禁止権〉が定められている。
送信可能化権著作権法の中でも比較的新しい権利ではあるが、もう既に今 時代遅れの様相を呈している。社会で起こるであろう摩擦というものを全く考えていないからだ。


個人の発信というものを、個人の複製以上に軽く見過ぎている。
もっと個人が採りうる選択行動というものを意識し、その自由を公正な範囲で保障し、その上で法秩序を考えていかねばならない。
俺は、これからの著作権制度を法学的立場だけでなく、社会科学的──さらに言えば自然科学的な観点も含めて考えていくべきだろうと思う。
実のところ、ホンモノの法学者はきわめて科学的視点を持っているものと俺は信頼しているのだけどね(中山先生とか田村先生とか白田先生とか)。しかしそうした科学的視点を制約してしまっているのは、一体なんなのだろうね。


もちろん先の法学者は一例。俺的には知財法の研究者しか知らないし(笑)。


(初出: Twitter http://twitter.com/himagine_no9