「いい本」って何じゃろ?

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 『ある編集者の気になるノート』というブログに「多くの人が認めた本だけが、「いい本」なんですか?」との記事。この記事がどうのというのではなく、これに“インスパイヤ”されて少し書いてみようかと思った次第である。


 ある本が「いい本」かを判断するのは読者である。それは確かだ。もちろん本というやつは(本に限らず音楽・映画などを含めた表現一般に言えるが)送り手と受け手の共犯関係であるから、送り手がいないことには始まらない。しかし本というメディアが使用される個の空間に着目するならば、あえて刺激的な表現をさせてもらうが、「いい本」というのは私が「いい」と思った本に他ならない。そしてそれの元をただせば、私が信頼を置く他人から「いい」と薦められる本ということになる(顔見知りからというだけでなく、書評などの一方的な情報提供も含まれる)。
 私が「いい本」と判断する以外の“いい本”は存在しないのも同じである。少なくとも現時点では。ここでの「いい本」は、多くの読者に支持されているかなどは関係ない。私あるいは「私が信頼を置く他人」が「いい」と思えるのかが大事なのであって、仮に「いい」と思う人が多くても、私や「私が信頼を置く他人」がその本を読まなかったらそれが現時点の結論である。


 さて、私は他人からの薦めによって「いい本」と出逢うわけだが、その薦める他人もまた「私」である。私が知合う無数の他人は それぞれ、また同じように無数の「信頼を置く他人」から「いい本」を薦められる「私」なのである。世の中には当然、「いい本」という判断をする主体である「私」が私の他に沢山いるわけで、それぞれが「いい本」との出逢いを得ているのである。そうした「私」が縦横無尽に面識を得、互いに薦めあう「いい本」が次々と生まれていく次第だ。
 ある本が発売されて、飛び込んでいかざるを得ない世界というのは かように混沌としたものである。しかし「いい」という思いは、起点が一点だとしても伝播していくものだ。「いい本」であれば、他人に感想を伝えたくなるし、他人に読むよう薦めたくなる。現時点では私と無縁の本であっても、そうした「いい本」の伝播が将来 私に届く可能性はある。その時に出逢えさえできれば、その本が「いい本」である証拠として十分である(いま私が無理やり「いい本」と認定する必要は無い)。


 私などは多分に楽観的なところがあるから、何かしら「いい」ところのある本ならば、この広い世界で何人かは「いい」と思う人がいるだろうと考えている。少なくとも、それを送り出す人間がいる以上、わずかでも「いい」と思っている人間がいなければおかしい。そこから「いい本」だと薦めていく人が出てきて、「いい」という共通の思いが広がっていく。多くの人間が「いい」と思うのか、少ない人間だけなのか、それはただ伝播の速度が速いか遅いかの違いしかなく、伝播を妨げる要因さえなければ「いい本」として読み継がれることになるのは間違いないのである。
 本のことを考えるにあたって、私が最も気になる問題は出逢った後に存在する。他人から「いい本」を薦められた「私」は、その本を手に取ることができるだろうか。絶版の憂き目に遭っていないだろうか。図書館にあればまだしも救われるかも知れないが‥‥。もし手に取ろうと思ったときに目の前に無かったら、その「いい本」は その人にとって存在しないも同じである(そう、せっかく出逢ったのに元の木阿弥だ)。どんなに送り手側が「いい本」を自負していても、意味を為さなくなってしまう。
 私は、「いい本」を考える上で、この問題を無視して語れないのである。


 今までは「私」の視点で考えていたが、今度は逆に社会全体に視点を置いて表現し直し、まとめとしようか。
 「いい本」とは、「いい本」だと語り継ぐ者が誰かしら現われ、彼らがその「いい本」との出逢いを他人に広げ、その他人が「いい本」を手にでき、「いい本」だとの実感をもって語り継いでいける本のことである。
 私はこのプロセスのどこが欠けてもいけないと思うし、重要なのは語り継がれるということで その寡多が問題となる訳ではないのである。極端な話、ひとりが語り継ぐものでも「いい本」の可能性はある。商売にはならないと思うが。